広島パンクの問題は核問題ではなくーポリティクスだ
記事と写真:ピーター・コーダス
訳:山田寿子
注意:この翻訳はJapan Timesの英文記事の翻訳です。GuyさんやNassさんの引用句は実際の言葉と多少異なりますのでご了承ください。この翻訳はご家族の方、友人、バンドのファンのみなさまに向けてさせて頂いたのもでオフィシャルなものではありません。ひさこ
「大人は馬鹿だ」。ハードコア・パンクバンド「Origin of M」のボーカリスト、Disk Shop Misery と Bloodsucker Recordsのオーナー、そして「Guy」として広島ではよく知られている Shinji Okodaは言う。
52歳の彼にこの言葉を言う権利は確実にあるように思える。
インタビューの前日にGuyは”To Future”2005年から毎年恒例の原爆追悼ライブで(またこれと同時に核問題についてフォーカスしたフリーマガジンのzineも製作しているが)、マイクに向かって叫び、観衆にサーフィングしていた(観衆の中に上から飛び込んでいた)が、今は嵐が過ぎ去った夏空のように広島市内のレストランで静かにコーヒーを飲んでいる。
「大人になるにつれて頭の中がごみでいっぱいになる。」子供たちは直感的に物事を理解する。1945年8月6日のイメージを見せるともう2度とあるべきではないと理解するだろう。戦争が「必要」になるのはその事を深く考えるときだけだ。
皮肉なことに、原爆というサブジェクトは広島のパンクシーンには存在していた。でも、だれも口にすることはなかった。それはまるでパンクライブのスラムピットの中に放射能を浴びた大きな像がいる感じだった。(でもそれにだれも気づかない、むしろ気付いているのに何も言わない)。
「もちろん昔バンドで原爆についての曲を歌ったものもあった。」Guyは回想する。GASによる初めの2つのflexies、1983年と1984年の「No More Hiroshima」と「The Day After 」。しかし、これらの歌のインスピレーションが広島のバンドから生まれたのか、それともCrassやDischargeのような「クールなバンド」がやっていたからなのか… 彼は口を濁す。
「おそらく、外国のバンドがそれをやっていたからだろう」 「しかし、外国のバンドは広島でパフォーマンスしたことがない。今、広島のバンドは戦争と核問題について広島の街をルーツに、またそれをリンクづけて曲を書きはじめている」Guyは言う。しかし、このような流れになってきた訳を聞くと答えをかわした。
広島のパンクは謙虚というしかない。
Dumb RecordsのオーナーであるRyohey Nasu、またはNass、44歳。広島で一番長くパンクをパフォーマンスしているSo-Cho Pistonsのドラマー。
「その理由はGuyさんだと思います。」
バンド自体は85年にスタートしたが、彼は95年にピストンズに加わった。 「長いけれどあまり売れていないバンド。」と彼は笑みを浮かべて言う。しかし、その結果(彼はキックドラムの後ろのように)広島のパンクシーンをとてもよく知っている。
「戦争に反対することは、普通のこと。」「誰もが戦争を嫌っていると思う。バンドがファッションで反戦等のスローガンをわざわざ胸に掲げなくて良い世界にしなくてはならないし、メッセージはもっとシンプルでいい。なぜそれをする必要があるのか(当たり前で誰もが思っている反戦のメッセージ)もっとシンプルに考える方がいい。」最近、広島のバンドは、広島の心からくる本当の意味の反戦と反核メッセージを取り入れている。その変化の原動力となるのはGuyさんだ。個人的には、それはとても良いことだと思う」
しかし、そういう広島の流れに共感するものの、ピストンズの曲にはそのようなメッセージはない。また、広島のバンドとして認識できる曲もない。
「僕はボーカルじゃない。」と彼は笑う。「ドラマーだ。」
「もちろん、広島が好き。この町あって僕らのバンドがある。しかし僕らの音楽でそれを言う必要はない。3コード、8ノートの純粋なパンク・ロックを演奏する。最近はパンクのバリエーションがたくさんあるので、誰かがそのスタンダード(ベーシックなところ)を維持する必要がある。
「また、広島では核兵器について話すことが本当に難しい」とNassは付け加える。
「日本でポリティカル(政治的)になることは非常にハードルが高い。」とGuyは言う。「特に若いやつにとって。」最終的に同意する人も含め、間違ったことを言うと強く批判される。 また、確実に売れるとは思うけど、自分のイメージを犠牲者としてつくりあげそれを利用して人気を得ることはまったくナンセンス。それは最低の行為だ。」
「長崎でも、‘no more Nagasaki’のあるメッセージのハードコアバンドは見たことがない。 Crassのようなバンドにとってこれを歌うのは容易だったかもしれない。なぜなら、彼らからしたら遠くの地に起こった悲劇だから(もちろんこれを歌ってくれたCrassに心から敬意を示す)。もし、彼らが長崎でパンクだけでなく被爆者の前でもNagasaki Nightmareを歌ってくれたら、これが本当のポリティカルアクションになると思う。」
肝心な点はGuyは行動している。「ポリティカルになるということは実際に何かすることを意味する。」
Guyは少年の時にはだしのゲン(1945年の広島を舞台にした漫画)を読んで、核兵器に関心を持ち、また被爆者の話も聞いた。19歳のとき、広島のハードコアバンドGudonを始めたが、その時はポリティカルになる自信がなかったし、あまり知識もなかった。
彼が39歳になるまでは、そういう気持ちを表に出していなかった。その後は彼は被爆者組織団体と関わったり、原発工事の抗議をしたり、反戦/反核などいろいろなデモに参加したりした。しかし、このような活動(ポリティカルな活動)をすればするほど、パンクシーンの人々は距離を置いていった。
「そのうち一人になった。」と彼は認める。
ヨーロッパやアメリカのパンクやハードコアのシーン(抗議する人、パンク、政治的な人が集う場所)と違って日本ではボートを揺らすとボートから投げ出される。なんだかんだ言って結局は”日本は出る杭は打たれる”という言葉を作った国だ。
しかし、基本的にパンクの定義はあなたがどれほど頑張っても頑固な一つの杭は打ち込むことが出来ない。Guyは確実に社会的な打撃に対して受けてたつことが出来るようにみえる。
「俺はどんな団体や組織にも属していないが、被爆者のミーティングなどに出来る限り参加する。」つまり、彼は昔ながらの草の根のパンクロック活動家だ。
このようなパンクロックアクティビストは日本以外ではどこの国でも多く見られる。
「俺にとって、ハードコアが一番はじめにくる。そしてそれは俺を認識させる音楽。」パンクの歴史では、Guyの音楽はそれを聞きたい人とまた彼自身に呼びかけるウェイクアップコール(目を覚ませ!、と言うメッセージ)のように思える。
「叫ぶことで心をリフレッシュする。」と彼は言う。「これが最大の理由。」
「誰がこの音楽が好き?確実にかわいらしい女の子は好きじゃないでしょ。」と彼は嘲笑する。 “Harcdoreは痛みを感じる時に無意識に起こる反応、すなわち「反射」のようなもの。どんな種類のパンクでも、パンクミュージックはそのシンプルで明確なところに訴えかける音楽だ。」
Nassも同意する。
「色々なことから影響を受けていない純粋で素直な子供のような気持ち。」とNassは言う。 「パンクとハードコアミュージックはその純粋さから来ている。」
これからピストンズは広島の原爆、戦争、核問題について曲を作る可能性があるかを聞くと、Nassはすぐ答えた。「その時が来たら、本当にしたい。まだ、いつか分からない。まだ何が貢献できるかわからない。」この言葉は全国で最も長くパフォーマンスしているバンドの一つ、ピストンズからだ。
広島のパンクは謙虚というしかない。
Guyはこれからも叫び続けることを決心する。「誰もが小さいころの記憶を思い出す時、その瞬間に戦争は消えるだろう。」
広島パンクの二人の魂
Disk Shop Misery(1993年設立)
広島の地元のアンダーグランドでインディペンデントパンクミュージックショップ。パンク、ハードコア、クラストのレコード、CD、Tシャツなど販売。広島であるパンクライブのほぼすべてのフライヤーが手に入る。
2-7 Fukuromachi, Naka-ku, Hiroshima
Dumb Records(2005年設立)
レコードショップアンドバー。新しいものから古いものまで幅広いパンクミュージックの
があるセレクトショップ。バーも併設しており、おいしい食べ物や生ビールも飲める。
5-15 Mikawacho, Naka-ku, Hiroshima